研究室の診察台の上から、医療室のベッドに移された神田は、未だ意識のないままだった。
ベッドの傍らの椅子に座り、リーバーは寝ている神田に付き添い、見守っていた。
シュテインからは、神田が意識を取り戻したら知らせるようにと言われている。
少年の青ざめていた顔色は平常時に戻ってきているが、瞼を閉じたその端正な顔がひどく儚げに見え、リーバーは不安を覚える。
(まだ、幼いのに…)
おそらく、この黒の教団に来る以前にも苦難があったのだろうと思う。
そして、エクソシストとしての宿命。
それは、これから過酷な戦いに赴くことを意味する。
それなのに、追い打ちをかけるような酷い目に彼を合わせてしまった。
リーバーは胸がつぶれるような思いだった。
思わず祈るかのように両の指をきつく組み合わせる。
視線の先にある少年の瞼がゆっくりと開いた。
「神田…!?」
まだ意識がはっきりしていないようで、名前を呼ばれて、神田はリーバーの方をぼんやりと見た。 そして、白い寝間着を着せられた身体を起こそうとする。
「大丈夫かい?」
リーバーが声をかける。 神田は怪訝そうな顔であたりを見回した。
「医療室だよ。君は意識を失って…」
リーバーはその後を言い淀んだ。
だが、神田は自分が意識を失う前にどんな目に遭ったかを思い出してしまったようだ。
表情が曇った。そして、不安そうに再びあたりを見回す。
「六幻…」
そう呟いた少年の言葉の意味がリーバーにはわからなかったが、彼がいつも携えている日本刀を捜しているのだと気づいた。
「これかい?」
ベッドサイドに置いてあったそれを神田に差し出すと、リーバーの手から奪い返すかのような勢いで受け取り、神田は刀を抱きしめた。
そのまま離そうとしない。
鞘に納まっている刀はイノセンスでできていた。
「神田、もう少し寝ていたほうがいい」
そうリーバーがかけた言葉に逆らって、神田は、イノセンスの刀を握り締め、ベッドから降り立った。
「自分ノ部屋ニ戻ル」
そう言って、少年は寝間着のままスタスタと歩き出した。
「待って!」
リーバーは後を追いかけ、思わず少年の肩に手をかけて引き留めた。
途端、少年に腕を振り払われ、激しい嫌悪が込められたキツイ眼差しで睨まれた。
なんという目なのだろう。
リーバーは思わずひるんだ。
だが、気を取り直し、少年を説得する。
「エクソシストとして戦うのなら万全の状態にしておくべきだ」
リーバーがそう語ったのは片言ながら日本語だった。
神田のキツイ眼差しが驚きに緩む。
「俺は少しなら日本語も話せる。…君は、死にかけたんだ。そのままにはしておけない」
神田はじっとリーバーをみつめた。再び眼差しに険しさが滲む。
「俺ハ死ナナイ」
神田は英語で応えた。
それでもリーバーの言葉にしたがって、神田はベッドへと戻った。
彼は六幻を手にしたままベッドに潜り込むと、リーバーの方に背を向けて横たわる。
リーバーは小さく息を付いて、ベッドサイトの椅子に腰掛けた。
まるでお気に入りのぬいぐるみのように刀を抱いて寝ている神田の姿はなんだか可愛かった。
「神田が意識を取り戻したか」
医療チームのスタッフがシュテインのもとに報告へ行ったのだろう。
部屋に現れたシュテインの声に神田はベッドから起き上がり、険しい眼差しを向けた。
シュテインに続いて部屋に長身の東洋人の青年が入って来た。
初めて見る顔である。 眼鏡をかけた白皙の顔は理知的な雰囲気である。
リーバーの視線に気づいて長身の青年は微笑んだ。眼鏡の下の黒い瞳は柔和そうで、彼は自らの名を告げた。
「はじめまして。この度、黒の教団に赴任したコムイ・リーです」
中国系の名前である。リーバーも185cmの長身だが、それよりも彼はさらに背丈がありだ。おそらく 190cmを越えているだろう。
「リーバー・ウェンハムです。よろしく」
二人は軽く握手を交した。
新参者のコムイはベッドの神田にも挨拶するが、神田は上目づかいで睨み付けるだけだ。
同じ東洋人の容貌のコムイに多少は親近感を覚えるといいのだがとリーバーは思った。
シュテインがリーバーに告げる。
「念のため、神田は医療チームの検査を受けさせよう。だが、その前にヘブラスカのもとへ連れて行く」
「ヘブラスカのところに?」
シュテインの言うヘブラスカもまたイノセンス適合者のエクソシストである。だが、その姿は異形で人とは言えない姿の存在である。
「コムイ。君も一度ヘブラスカに会っておいた方がいい」
「はい」
新任の東洋人はヘブラスカについて聞かされているのだろうか。それにしてもヘブラスカと会う者は限られている。たまたま神田の件があったとしても、早々にヘブラスカと対面できるのは、かなりこの男が優秀だからだろうとリーバーは考えた。
ヘブラスカがいるのは、奈落のような空間である。浮遊するフロアに乗り込んで、ヘブラスカの元へと赴く。名を呼ぶと足下の空間から通常の人間の十倍はあろうかとも思える大きさの巨躯が姿を現す。人間と何か別の生物が融合した形をしており、性別も判別できない。リーバーは、現れたヘブラスカの姿に未だ畏怖を覚える。
「神田をみてくれ」
シュテインの言葉にヘブラスカの触手化した羽根のような大きな手が伸び、六幻を携えた神田の身体を包みこんで捉え、自分のもとへと引き寄せる。
ヘブラスカはエクソシストとしては特殊で、回収したイノセンスの番人であり、そしてまた、エクソシストを見定める能力があった。故に教団に入団したエクソシストはヘブラスカによって審査を受ける。ヘブラスカはエクソシストとイノセンスのシンクロ率や性質を明らかにすることができるのだ。
神田は大人しくヘブラスカの手の中に収まりじっとしている。神田も入団時にはヘブラスカの審査を受けている。その時、イノセンスとの適合率は高いこと、そして、異様な回復力があることをヘブラスカは告げたのだ。
「ヘブラスカ、神田は発作を起こし、仮死状態に陥った。何か問題があるのなら教えて欲しい」
シュテインの言葉にヘブラスカは大きな頭を傾げて、自分の手の中の神田に近づける。ヘブラスカの額と思しき場所が、神田の小さな額にそっとあてられた。神田は身じろぎもしない。
「イノセンスとのシンクロ率78%。訓練次第でさらに高くなるだろう」
そう告げて、ヘブラスカは沈黙した。
「それから? 神田の発作の原因は何だ?」
シュテインが促す。
ヘブラスカは尚も沈黙し、その後にポツリと告げた。
「……穢された」
その言葉にリーバーはドキリとし、スッと血の気が引いた。
神田にはヘブラスカが言った、その言葉がわかっただろうか?
少年は無表情なまま、ヘブラスカの手の中に収まっている。
ヘブラスカは彼の身に何が起きたかを感知している。 リーバーはそのことに驚愕しつつも、ヘブラスカが神田の発作の原因を明らかにしてくれることをシュテイン同様、期待していた。
ヘブラスカが告げた。
「私は全てを見通しているわけではない。私がわかるのは一部だけだ。…彼には、強い暗示がかけられているのかもしれない…。性行為は禁忌だと…」
「まともにセックスできないようにプログラムされているわけか。だが、なぜだ?」
シュテインが尋ねる。
「…わからない。彼の故国のしきたりが関係しているのかもしれない」
「まあいい。彼の回復力には問題はないわけだな」
「今、あらたにわかったことがある。彼の回復力は、あなたが思っているような不老不死に繋がるものではない。むしろ…」
ヘブラスカが言い淀んだ。
「何だ?」
「彼は短命だろう。驚異的な回復力と引き替えに、…彼は、…己の寿命を縮めている」
「なんだと!?」
シュテインは瞠目した。そして、
「…なんてことだ。…期待はずれもいいとこだ!」
落胆した。
「非道いですね」
小声で囁かれたその言葉は、リーバーの隣に立って、ヘブラスカと神田の様子を見ていたコムイのものだった。
思わず、リーバーが視線をコムイに向けると、コムイはにっこりと微笑んだ。
シュテインの酷い落胆ぶりは、リーバーが心配になるほどだった。
叡智に富んでいると思われた老科学者は一気に老け込んでしまったようにみえる。
神田を医療室へ戻すと、シュテインは肩を落とし、何やらブツブツ呟きながら重い足取りで歩き去って行った。
「やれやれ、もう少し、シュテイン博士には教団のことを教えて頂きたかったのに、あの様子じゃ無理ですね」
コムイが肩をすくめる。
コムイはリーバーとともに医療室に残った。 神田はといえばベッドに再び六幻とともに潜り込んでしまっている。
「リーバー、少しあなたとお話したいんですが、お茶でも飲みませんか?」
「でも、神田は?」
「大丈夫。大人しくしてますよ。医療室のスタッフに看ていてもらえばいいですよ」
言われてみれば、リーバーは神田が倒れて以来、何も口にしておらず、喉の渇きを覚えた。
「私の部屋で話しませんか?美味しい中国茶がありますよ」
リーバーはコムイの誘いに応じることにした。
|